ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
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ヨガナンダ



元はじまり<3>

自らの思いと行動が運命を形作る、
この考え方はどんな宗教もスピリチュアリズムも同じです。
ただそこからどの様に運命を変革していくのかという手法に大きな違いがあります。

大ざっぱに言いますので例外はあると思いますが、
宗教は何らかのものに絶対的な価値を置き、
それを維持するために教団を作り、教会のような建物を建て、
教義という形で教えを説き、それを守り、
その宗教で定められた儀式を行うことを強く求めます。

宗教は絶対的で求心力の強いものであるがゆえ排他的であり、
他の宗教や精神的な教えと平行して実践することは通常困難です。
ヒンズー教はお釈迦様もヒンズー教の神の一人と見なすほど寛容ではありますが、
イスラム教など他宗教との命がけの闘争を繰り広げています。

これら宗教の特質は典型的な金属の理であり、
その対極とも言えるスピリチュアリズムは、
これからの時代の象徴である水の時代の理を受け、
きわめて自由で融合的です。

スピリチュアリズムで説かれているものは、
ひとつひとつはあくまでも手法であり、
それが絶対であるとか最高であるとは説いていません。

それらを自分の生き様の中にどの様に取り入れ、
活かしていくのか、それはそれを受け入れる本人自身に求めています。


宗教とスピリチュアリズムの違いを考えていて、ふと頭に浮かんだのですが、
これは高校までの学校教育と大学のそれとの違いととてもよく似ていると思います。

義務教育の小中学校、そして高校までは、
生徒たち一人一人の自主性よりも、
皆一律にコースで定められた課題を盲目的にこなし、
すべての教科で最低ライン以上の成績を取り、
総合的に評価が高い者が「善なる者」として尊ばれます。

これはこれまでの時代の宗教の特質ととてもよく似ていると思います。
それに対して自由を重んじるスピリチュアリズムは大学教育のようなものでしょう。

大学でどういう学問を修めるかは本人次第です。
たくさんある講義の中から自分で興味のあるものを選択し、
自らの意志で学んでいきます。
出欠を取らない講義が多いので、講義を聴くか聴かないかは本人次第です。

大きな枠組みの最低単位取得基準を満たしてさえいれば、
たくさん単位を取ろうがラインギリギリであろうが、
優秀な成績であろうがそうでなかろうが、
卒業要件には影響を与えません。

多くの学生が最終学年では卒論を仕上げますが、
その課題となるものを選ぶのは本人です。


大学という自主性を尊ぶ学問の場で自由を与えられると、
自分を律することができなかったり、
また自分の本当にやりたいことが理解できていない学生は、
紐の切れた凧のように宙をさまよい、
自堕落で無為な時間を過してしまうことにもなりかねません。

残念ながら現在の日本の大学生の現状というのは、
高校時代よりも格段に学問に割く時間が少なくなっているのが現状です。

かといって大学に入ってまでも、
高校の時と同じように一律のカリキュラムでの指導を続けたならば、
きわめて大切である自主性というものを育て、
高めることとができなくなってしまいます。

そんな状態で社会の中に入っていっても、
いつまで経っても「指示待ち人間」、「マニュアル人間」といった領域から
抜け出ることはできず、
日本の社会全体が衰退していってしまいます。


理想の教育のあり方というものは、
その子ども(人)のおかれている社会環境や年齢、発達度合によって異なります。

私たちは金属の時代から水の時代への転換期に立ち、
ちょうど高校から大学へと進学していく最中のように、
物事に取り組む姿勢や主体性といったものが問われています。

これから広がっていくスピリチュアリズムの世界は素晴らしいものです。
けれどもそれを享受する私たちに、
それを100%受け入れられるだけの度量があるでしょうか。


人間は年齢とともに成長していくものですが、
大学に入る年齢になったとしても、
全員が必ずして主体性を持って
何かを自ら学んでいく姿勢を身に付けているとは限りません。

人によっては大学に入ったとしても、
まだ少しの期間は、
定められたカリキュラムを一律に与えられた方がいい場合もあるかもしれません。


時代は宗教からスピリチュアリズムへと移ろいつつあるとはいうものの、
まだ宗教には役割があり、人を導く大きな力を持っています。
逆に素晴らしいスピリチュアリズムの手法であったとしても、
それを誤って利用したならば、
自分というものを見失う危険性をも兼ね備えています。

何度も繰り返し言うように、
価値というものは、そのもの自体にあるのではなく、
それといかに関わるかという、自分の内に存在します。

本当に素晴らしいスピリチュアリズムの価値を高めるには、
それと関わる自分自身の中に、
生きるとはどういうことなのか、幸せとは何なのか、
その手法を自分の生き様の中でどのように活かしていくのか、
そういった「哲学」を持たなければならなりません。

単なる目先の欲望を満たすための手段であるならば、
それはスピリチュアリズムではありません。
呪術やまじないの類と同等です。


私のホームページを見てくださっている人の中には、
たびたび宗教について書いていることに嫌悪感を示す方もおられるのですが、
宗教イコール危険であり忌み嫌うものというステレオタイプな物の見方こそ、
金属的宗教的思考であり、水の時代の理と相反するものだと感じます。

まったくの余談ですが、
「私は右脳タイプの人間なんです」と言われる方がおられますが、
この言葉にはとても違和感を覚えます。

大脳の右脳は感性、左脳は論理を司ると一般的に言われますが、
大脳の機能はお互いに補完し合っていて、
右脳の機能がまったく麻痺し、左脳だけで日常の生活を送り、
素晴らしい数々の芸術作品を残している岩下哲士さんのような人もおられます。

哲ちゃんの詩哲ちゃんの詩
岩下 哲士

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私は岩下さんの原画を広島市内のデパートで観たのですが、
その絵から発散される生命力は、
ゴッホの絵をも凌駕するものだと感じました。

右脳と左脳は完全には機能分化していません。
たぶんそういった知識を持たれていないからなのでしょうが、
「私は感性だから右脳タイプ ・・・ 」
などという紋切り型の分類をされると、
「この人って逆に論理で何事も割り切ろうとする左脳タイプでは ・・・ 」
と思ってしまいます。


私は自らの体験を通し、
宗教、スピリチュアリズム、どちらのいい面も悪い面も見ることができました。

この己の知識と体験、能力を活かし、
これからの時代の転換期がよりスムーズに進んでいけるよう、
天命をまっとうしていきたいと考えています。

2011.2.3 Thurseday  
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