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2018年12月27日 ・・・ 性の尊厳

人間をはじめ、すべての両性生物、植物にとって、
性は後世に生命をつないでいくために欠くことのできない大切なものであり、
そして極めて大切であるがゆえ、
その一部は「秘め事」として表に表すことがタブー視されています。

性のあり方から「生」というものの仕組み、
生命体として本来的な欲求の姿を垣間見ることができ、
以前から性に関する様々なことを、
生命探究の一環として興味深く見つめてきました。


十数年前、ある雑誌で「障害者の性」の問題が取り上げられていて、
そこに、性をタブー視するがゆえ、
当事者たちが抱える深く大きな悩みと葛藤があるということを知り、
性に対する問題としてだけではなく、
その上にある建前社会の大きな矛盾を感じました。

障害を持った人たち、男性も女性も一人の人間です。
健常な人たちと同じように食事をし、布団で眠り、
異性に対して恋心を抱き、性に対する欲求があるのはごく自然なことです。

けれど世間では、そんなことはまったく考えもせず、
障害者は寝て食べて、最低限の生存条件のみ満たされたなら
性の問題は考える必要はない、
そもそもそのような問題は存在しないとでも言わんばかりの雰囲気です。

たぶん身近に障害を持った方がいない人は、
生涯結婚をすることのない障害者、
自ら性処理をすることのできない障害者が、
性のことで深い葛藤を抱えているということなど、
一度も考えることすらないのだろうと思います。

以前ある本でこの障害者の性の問題に対し、
「そんなことはスポーツでもして気を紛らわせればいい」
という意見が書かれていましたが、
自身の最も性に対する欲求が強かった十代後半頃のことを
思い返していただければ分かるように、
性に対する渇望のような強い思いは、
決して他のことで紛らわせることではありません。

「胸を切り裂かれるほどの恋心」という言葉があるように、
それは生にとって最高レベルの苦しみです。


自分は障害を抱えた当事者ではありません。
けれどここで誤解を恐れず、
持論を述べさせていただきます。

人間には有名な三大欲求というものがあります。
食欲、睡眠欲、そして性欲、この三つです。

この三大欲求はさら二つに分けられます。
食欲と睡眠欲、これを絶たれたら人間は生きていくことができません。
この二つは人間の生命を保つため、
個体としての肉体を維持していくために必要不可欠なもです。

それに対して性欲は、個体を維持していくためのものではなく、
その個体が滅した後も、その個体のコピーとしての子孫に生命をつなぎ、
種としての生命を保つための欲求です。

そして個体維持と種としての生命維持、
この二つを合わせ、共通するものというのは、
種としての生命の根源、遺伝子を維持するということです。

これが有名な「利己的遺伝子」(セルフィッシュ・ジーン)
という考え方で、
人間の欲望の根源はただひとつ、
「自らの遺伝子を残したい」ということです。



ですから人間は自らの生命に危機が訪れ、
個体の生命維持に困難を感じた時、
その遺伝子をなんとかして残そうと思い、
性欲が高まるのは自然な生理的現象です。

何か身に危険が迫った時、
動悸が高まり胸がドキドキしてきます。
これは恋する人を前にした時の胸の高まりと同じであり、
この違いを思考で区別することはできず、
危険な状態の時に出会った異性には、
強い恋愛感情を持ちやすくなるのです。


それと同じように障害を持つ方は、
自らの生の表現に困難を感じておられたり、
また長寿を望めないと感じておられるのであれば、
その代償作用として、
性に対する欲求がより高まってくるのは自然なことだと思われます。

これが生命を維持・継承したいと望む生命体としての
自然な反応です。


さらに話をつなげるならば、
従軍慰安婦の問題も同じです。

※ これは朝日新聞によってでっち上げられた、
  旧日本軍が朝鮮人女性を強制連行したという
  ウソ話とはまったく関係ありません。

戦場の兵士というのは、
どんな場所にいようとも常に生命の危機を感じるものです。
そしてその生命に対する危機感、高揚感というのは、
当然異性に対する強い欲求につながります。

また敵地に入り、敵兵の生命を狙いながら
その敵地の民間人と接した時、
心の中で通常時の倫理観を持ち続けるのは極めて難しいことです。

戦地における武器を持った兵士は絶対的強者であり、
敵国の民間人の殺生与奪の権利を有し、
そこで暴虐の限りを尽くすことは本来許されるべきことではありませんが、
そう行動してしまうのは、
人間の心の中の弱さとして認めざるえない一面です。

ベトナム戦争で韓国軍が行った極めて非人道的な「ライダイハン」などは、
その典型的な一例です。
また有名な「スタンフォード監獄実験」で明かされたように、
与えられた立場によって人間の態度は大きく影響を受けるものです。

ですからそういった戦地における兵士の葛藤を鎮め、
婦女子や民間人への暴虐を抑えるためにも、
慰安婦というのは必要であったと考えます。

これから日本は二度と戦争に関わって欲しくはありません。
(そのためにも沖縄の米軍基地や改憲は必要だと考えます)

けれどもし残念ながら日本が戦争に巻き込まれたとしても、
今の日本の世論では、
公に軍に付随する慰安婦を認めることはできないでしょう。

ただもし認めることができないのであれば、
それに代わる何かを見つけなければ、
障害者の性の問題と同じように、
『臭いものには蓋を』で、問題の根をより深くするだけだと考えます。


話が随分逸れてしまいましたが、
この世間では存在すら認識されていない障害者の性の問題を、
このたび「AbemaPrime」で大きく取り上げられ、
世間に広く知られるキッカケになるのではと嬉しく感じました。
「「地獄の苦しみだった」と乙武洋匡氏 障害者が抱える性の問題」

これはダイジェストです。 是非ご覧ください。
本編は「こちら」です。



まずひとつ、性の欲求を解消できないで苦しんでいる障害者が、
実際に数多く存在するという事実、
このことをを知ってもらいたいということ。

そしてそれは乙武氏の語るように、
「地獄の苦しみ」であるということ。

さらには本編の中にありますが、
「介助は必要であるが、それが娯楽であってはいけない」ということ、
この言葉はまたひとつの大きな問題提起だと感じます。

必要最低限の介助は許されるが、
その上の娯楽、喜びや楽しみを伴うものであってはいけないというのは、
本来の性のあり方とは離れています。

性とは必要があってするものではなく、
性の喜び(悦び)、これを感じ、生の喜びとして昇華していくものです。

この必要最低限の介助だけでいいという発想は、
衣食さえ足りてさえいれば性に関することは問題視する必要はないという
現在の障害者の性の問題と同じ根っこを持つものだと感じます。

とは言え、ただ単に性欲処理(男性の場合は射精)をするだけではなく、
そこに恋愛感情に似た満足感のあるものを
制度として取り入れられるかというと、
それは極めて難しい問題です。


これを解決していくためには、
多くの人にこのことを知ってもらうと同時に、
性に関する様々なことを隠すのではなく、
公にしていくことが必要ではないかと考えます。

日本では昭和33年に売春防止法が施行され、
街から赤線と呼ばれる売春地帯は消滅しました。
消滅はしましたが、それはあくまで表向きのことで、
日本の大都市の繁華街は、
どこに行ってもソープランドや風俗店があり、
昔と同じように売春が行われているのは誰もが知る事実です。

この本音と建前、表と裏が公然と存在する現状を変え、
公娼制度を復活し、
性産業で働く人たちの地位と人権を確立するところから、
隠れた性の問題を解決する糸口が見つかるのではないかと感じます。

同番組でもこの問題について様々な角度から語られているように、
性に対して考えていかなければならないことは山積しています。
山積しているからこそ、
そこに光を当て、多くの人たちとともに
解決策を見つけていかなければなりません。


性は生の問題と同様限りなく奥が深く、
食や睡眠のようにそれが絶たれてすぐに生命を落とすことがないだけに、
より深いところで生命に関わっていると言えるのではないでしょうか。

「性の尊厳」は「生の尊厳」と同義であると考え、
真剣に捉えるべき時が来たのだと感じます。

2018.12.27 Thurseday  
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