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2018年2月23日 ・・・ 坊主憎けりゃ

今日は年配の知り合い女性から頼まれて、
CDの音楽をiPadに入れる作業をしました。
特別難しいことではありませんが、
たまにしかやらないので、やり方を思い出すのに一苦労です。

その時に他のパソコン作業も並行して行っていて、少し頭が混乱し、
どういう順番で何をしていけばいいのか、
そんなことを考えたりしていました。

机の上には二枚組のそのディスクとケース、歌詞カード、
その他もろもろが転がっていて、
ついでにコーヒーも飲みながらといった状態です。

その時、ふと机の右手前に置いているコーヒーカップを見ると、
なにか小枝のようなものが突き刺さっています。
よく見ると、それはなんと、イヤフォンの音の出るヘッドの部分で、
そこから伸びる黒いケーブルが小枝のように見えていたのでした!!



大慌てでコーヒーに漬かったイヤフォンを取り出し、
ティッシュで湿り気を取って音を聞いてみると、
コーヒーに漬かっていた右側のヘッドからはほとんど音が聞こえません。

イヤーパッドを外して再度湿り気を取ったり、
ストーブに当てて乾かすと、少しずつ音が大きくなってきましたが、
あれから数時間経った今も、
右側から出る音は、高い音がこもったような感じになっています。

iPadと愛用のイヤフォンは
外出する時は常に持ち歩いているのでちょっとショックです。


自分の不注意でこんなことになって、
あわてんぼうの自分を情けなく思うと同時に、
少しだけ腹が立ってきました。

腹が立ってきた、その対象は自分自身に対してであり、
またCDを預けたその知り合い女性に対してです。
彼女には何の責任もないにも関わらず ・・・ です。


昨日は「クレショフ効果」をご紹介しました。
ひとつの映像から受け取る意味が、
その前後に見る(見せられる)映像によって変ってくるというもの、
つまり組み合わせる映像によって、
意図的な印象操作をすることが可能だということです。

今日感じた“八つ当たり”的感情も、
知り合いの女性からCDを預かった、ということと、
イヤフォンをコーヒー漬けにした、というまったく無関係な事柄が、
無関係とは分かっていても、
感情の中でごっちゃになってしまうことによって生じたものです。


以前こんな心理学実験を見ました。
電話ボックスを出たばかりの人が老人に親切にするかどうかという実験です。

電話ボックスのすぐ外で体の不自由なお年寄りが歩いている時、
それを手助けする人がどれぐらいいるのかを確かめました。
ひとつは何も作為をしないグループ、
もう一方は、電話ボックスの中にお金を置いておき、
それを拾って外に出たグループです。

その実験により、無作為のグループよりも、
電話ボックスでお金を拾って上機嫌の人たちの方が、
困っているお年寄りに手を差し伸べる確率が高いということが分かりました。

これは逆もまた真ですね。
今日の自分の場合、イヤフォンのコーヒー漬けによって生じた不快感が、
それとは無関係の知り合いへの感情に影響を与えました。


こういったことは本当によくあることだと思います。
そのよくある中には、今日の自分のように、
混乱した感情の様子が自覚できる場合もあれば、
それが分からない場合もあります。

そしてそれが分かる場合でも分からない場合でも、
人間は自らの思考が感情に左右されない
正当かつ客観的なものだと思い込もうとし、
それを示すための証拠を探そうとするものです。

今日の場合だと、その知り合いとの過去の関わりを思い返し、
その中で不満な点を見つめ、自らの怒りの感情を正当化しようとします。

これが判断の目を曇らせる原因であり、
だからこそ感情は手放さなければなりません。


その感情は、セドナメソッドで説いているように、
勇気、受容、平安といったプラスの感情をも含みます。
そのことを最近瞑想をする中で強く感じるようになりました。

すべての原点は、今この瞬間、この場所、その一点にあります。
その時間的、空間的極小の一点がすべてであり、
瞑想の大きな意義はそこに意識を置くことです。

この時に邪魔をするのが心の中から湧き上がってくる感情であり、
その感情にいい悪いの区別はありません。

湧き上がる感情はその時には存在しても、
それを引きずることはよくないということが、
最近感じられるようになりました。


とは言え、感情を完全に捨て去ることはできません。
ですから、思考と感情とを別々に捉え、
それを客観視するトレーニングが必要です。

先に書いた「離見の見」とは、
自己を離れたところから見るという意味であり、
思考と感情を分離し、
自らの感情の動きを冷静に眺めるということも、
ほぼ同義ではないかと感じます。


人間の感情、その大本は、
五感から入ってくる情報によって形作られます。

人間の五感は、嗅覚や聴覚は犬のそれにはるかに劣り、
目で見ることのできる可視光線は、光の帯域のごく一部です。

つまり人間は物事の実態のごく一部しか捉えていないのであり、
極論を言うならば、
人間に「客観的事実」を捉える能力はなく、
身の回りのすべて物事は、
自らが意味付けをした「主観的解釈」だと考えるのが妥当です。

そのぐらい極端に捉えた方が、
自らの感情の動きに冷静になり、
感じ方の異なる他人に対しても寛容になれます。

『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』
誰しも冷静に思考した結果だと感じている判断でも、
その諺に似たり寄ったり、感情に大きく左右されている部分が
あると思っていた方が無難であり、また正確です。


コーヒー漬けになったイヤフォンは、
音を聞くだけなら問題ありません。
実際聞くもののほとんどが英語学習素材なので、
当分は我慢してこれを使っていこうと思います。

そしてその音を聞くたびに、
『坊主憎けりゃ ・・・ 』の言葉を思い出し、
自らの心にある感情の存在に意識を向けていきたいと考えています。

2018.2.23 Friday  
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