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2017年6月23日 ・・・ 対極を知る

何かについて思いを文章にするというのは、
頭の中を整理したり、
書いたことを自らの心に刻みつけ、
決意表明になるということ等、
様々な意義があります。

そして書いた後も、その書いた文章が余韻のように心に響き、
また新たな思いが生まれてくることもしばしばです。

先日「トイレ掃除の価値」を書き、
あらためてトイレ掃除の意味を考える機会になりました。

そこで浮んできたのが対極という言葉です。


トイレ掃除活動では、
長靴を履いたり裸足になったりして、
便器に向かい合う姿勢でしゃがみこみ、
自らの手を使って便器を何百回、何千回と磨き上げます。

床を磨く時も棒の付いた道具はほとんど使いません。
床に這いつくばるようにし、
雑巾やタワシを手に懸命に汚れを落としていきます。

これは少しでも楽に、少しでも便利に、少しでも快適にといった方向を目指す
現代社会のあり方とは対極であり、
だからこそそこから学び取れるものが大きく、
また逆に、批判を受けることも多いのだと感じます。


何度も書いてきたことですが、
除菌・殺菌・滅菌、現代社会が目指しているのはより清潔な環境です。
日本の衛生環境は世界でもトップクラスであり、
その清潔さは年々向上し、
数十年前の環境とは比べものになりません。

清潔が浄で、清潔ではない環境を不浄とするならば、
文明が進めば進むほど、衛生環境がよくなればよくなるほど、
感覚的に浄と受け取れる範囲は狭くなります。

昔だったら少々汚れの付いた果物でも丸かじりできたのが、
今は口に入れるものはきれいに洗い、皮をむき、
お皿の上に乗せてスプーンかフォークを使わなければいけないといった具合です。

日本では災害が起こった時のインフラの確保が問題となりますが、
現代社会の “浄なる環境” は、
高度な文明に支えられた砂上の楼閣のようなものであり、
いつ崩壊するか分からない危険性を秘めています。

これはひとつの豊かさの極みですが、
これとはまた別の、浄と受け取る範囲を広げる豊かさもあります。

インドでは、食事の時に手が少々汚れていてもノー・プロブレムです。
その手で食器に盛られた料理を手づかみで食べ、
その食器を池の水で洗ったりもするのです。

幼い頃からこういった習慣があれば菌に対する耐性もでき、
これでお腹を壊したり病気になることはありません。

こんなことを許容できる “浄の範囲の広さ” 、
これは現代文明の豊かさとは異なった自然をありのままに受け入れる生き方であり、
別の意味での豊かさです。


最新型のシステムキッチンで料理ができるのも素晴らしいですが、
外の好きなところで石を積んでかまどを作り、
拾った木を薪にして料理ができたら幸せです。

このどちらがいいと比べることはできませんが、
人間はどこまで行っても自然の一造物であるという事実は変わりません。
その事実を忘れ、自然を支配しようとし、自然から乖離し、
その自然から得られる感覚を忘れ去ってしまっては、
いつか深い滝壺に落ちてしまいます。

そうならないためには、
自然と己との立ち位置を常に確認することです。
立ち位置を確認するには、
今の立場と対極のものを知ることが求められます。

清潔志向が進み、多くのものを不浄な範囲に入れてしまっているからこそ
最も不浄とされるトイレを、
効率的なものばかり求めているからこそ非効率的な手作業を、
対極を知るということは、
両極の広い範囲を知るということであり、
これが心の豊かさに通じます。

掃除道の創始者である鍵山秀三郎氏は、
『最大の努力で、最小の成果を』
と述べられていて、、
効率や目先の利益ばかりを追い求める今の世の中だからこそ、
対極であるこの言葉が価値を持ちます。


対極を知るということはバランスを保つということでもあります。
陰と陽、右と左、どちらもバランスよくあわせ持つことによって調和を保ち、
中心軸、中道を貫くことができます。

空調の効いたきれいなビルが立ち並び、
町並みも整っている日本では、
トイレもキレイでなければ調和が保てません。

きれいな内装のビルの片隅に、
汚れて異臭のするトイレがあってはその場の空気が乱れ、
そこにいる人の心にもいい影響を与えません。

高度な衛生環境を保とうとする社会では、
不浄なものを排除する必要があり、
その不浄とされるところをキレイに整えることが、
自然から離れた文明社会のバランスです。


それに対してインドでは、
家にトイレがない家庭が多いなどという、
日本とは比べものにならない次元の世界であり、
日本のような光輝くトイレなどほとんど目にすることができません。
 (都市部や空港などは別です)

昨年からインドでも現地でクレンザーや金属たわしを購入し、
自分が使わせてもらうトイレだけでもキレイに磨くよう心がけています。
いつも寝泊まりさせてもらうホームのトイレは、
さすがに汚物が飛び散っているということはないものの、
蛇口から出る井戸水が硬水のため、
かなりしつこい水垢がこびりついていて、
これを完全にキレイにするのはほとんど不可能です。

けれどそれでいいいのです。
自然と親しい暮らしをし、
砂煙が立つ大地、木々や草花、動物や昆虫たち、
それら自然の多くを浄として受け入れる暮らしの中では、
自然とつくトイレの汚れはそのままの状態の方がよく似合い、
周りとの調和が取れています。

ありのままの自然は、
そのままで様々な対極のものを飲み込んだダイナミックな太極の状態であり、
バランスの取れた世界です。
不浄なものも不浄なままが自然です。


高度な文明社会を目指している日本人が、
その高い精神性を保つためには、
原始的な手法で “不浄と闘う” トイレ掃除は価値あるものだと感じます。
これは自然から乖離してしまったことに対する贖罪のようなものでもあります。


対極を知るというのは、魂の深い叫びでもあります。

最近鈴木啓介さんという方の本を深く噛みしめるように読んでいます。
鈴木さんは理知的な元外資系製薬会社のサラリーマンで、
ヘミシンクという意識覚醒の手法を体験したことから
深い魂の世界を知り、
今はセミナーなどを通し、
参加者の過去世からの心のブロックを解除する手助けをしておられます。

鈴木さんの語るスピリチュアリズムは願望実現といった表層的なものではなく、
もっと深い、その人の魂から導き出されるものであり、
本に書かれていることも客観性と愛を感じさせる霊性の高いものです。

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現世の鈴木さんは自らの魂の意志として
『世界中の飢えや貧困で困っている子どもたちを救いたい』
という強い思いを持っておられます。

そして鈴木さんはこれまでの体験から、
自らの数々の過去世での出来事を知るようになり、
そこで分かったのは、
その意志を強固なものとするため、
過去世で自ら親から虐待を受けたり、捨てられたりする経験を持ち、
それを成長の糧としていたということです。

『艱難辛苦は汝を珠にす』 という言葉があります。
艱難辛苦とは、望むべきものとは対極の状態であり、
だからこそそこから大きなものが生まれ、
魂は時としてそれを導くことがあります。

真のスピリチュアリズムとは、
その魂の意志をもくみ取ったものでなければいけないと考えます。


人間を含め、すべての自然の有する生命システムは完璧です。
その完璧な生命体である人間が、
不自由な表面意識と肉体を持ってこの世に現れたのは、
その不自由さを経験し、
何かをつかみ取りたい、感じたいという意志だと感じます。

ですから経験こそ宝であり、
対極に挑む、対極を知るという姿勢は、
その経験の価値を高めるものだと考えます。

今は時代が超高速で変化しています。
だからこそいったん立ち止まり、自らの足下を見つめる、
または行こうとしている先ではなく対極であるスタート地点、原点、
太極である自然を振り返ることが大切なのです。

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