ヨガナンダ 心の時代のパイオニア
 ヨガナンダ > 日々の思い > 2015.12.25



ヨガナンダ



2015年12月25日 ・・・ 今年心に深く残った言葉

年末は時が過ぎるのが早いですね。
前回ページを更新してから十日も経ち、そのことに今日気づいて唖然としました。

12月は外で食事をする機会が多く、
心身ともに、特に胃腸が疲れ気味です。

普段は遠方に出かけることはあまり多くないのですが、
この間二回九州に足を伸ばしました。
一度は小倉で三年前からメールで交流している方と初めてお会いし、
意気投合し、小倉で一番という美味しい料理屋で、
これまで口にしたことのないような美味しい料理とお酒を堪能しました。
志をともにする同士との一時は最高です。

小倉から帰った翌日は女性二人と同行し長崎まで車で出かけ、
平戸ツツジで有名な平戸に行きました。
長崎県に足を入れるのは生まれて初めてです。
ここでは障害を持つ方たちとの忘年会に参加したのですが、
窓から望む美しい島並と相まって、
そこでお会いした方々との交流は忘れ難いものでした。


瀬戸内海は広く四国、中国、近畿に面していて、
その中でも自分が住む広島から眺める島並が最も美しいと感じているのですが、
初めて見る長崎の島の姿、五島列島は、
それに勝るとも劣らぬ幽玄さで、心の中の故郷を見るような思いでした。

今年公開された「くちびるに歌を」という映画はその五島列島を舞台にしていて、
とても評判がよかったので、いつか見てみたいと思っていたのですが、
つい数日前に見る機会を得て、
その少し前に行った平戸の景色を思い出し、とても懐かしく感じました。



ちょっとベタなストーリーですが、
子どもたちの心の純粋さと人生の機微、
そして何より美しい島の風景に心打たれるいい映画です。


年末はこの一年を締めくくり、
これまであったことを振り返るいい機会です。
ここに自分の心に再び刻み込む意味を含め、
この一年で心に深く残った言葉を書いてみます。

この一年間でいろんなことを感じました。
あまり外面的な部分は変わってはいないのですが、
心の内は確実に一歩新たな境地に入って行けたことを実感しています。


『起こってくることはすべて正しい』

今年は一月中旬から一ヶ月半、
六度目の南インドへの旅に出かけました。
今回はホームを運営するオーナーたちの娘二人が結婚するので、
その式に参列するのも大きな目的でした。

インドに行くたびに毎回大きなものを感じますが、
今回もまた、新たな思いを感じ取ることができました。
それは多少の苦しさを伴うものでしたが、
それゆえにより心に深く染み入ってくるものでした。

インドに行った初日、首都ニューデリーに立ち寄った際、
何かの衝撃が加わったためか、
メインで使おうと考えていた一眼レフカメラが動作不良になってしまいました。
結局インド滞在中はそのカメラを使うことができず、
帰国後メーカーに修理に出したところ、
なぜか不具合箇所なしということでそのまま戻ってきて、
今も順調に動作しています。 不思議なことです。

自分の肉体のウイークポイントのひとつが左前歯です。
学生時代オートバイ事故で前歯をなくし、
その時から差し歯になっていて、
その差し歯の根元がかなり怪しくなり容易に修復できない状態になっています。
その前歯がインド到着早々ぐらつくようになり、
インドで五六回歯医者に行ったものの、
結局滞在中のほとんどを片前歯の欠けた状態で過ごすことになりました。

そして最も心苦しかった事は、
昨今のインドでの性犯罪の多発化を受け、
可愛い女児との接触に制限が設けられたことです。
インドのホームで暮らす子どもは男の子も女の子もみんな可愛いのですが、
元気いっぱい体でぶつかってくる男の子より、
優しく接してくれる女の子と触れ合っている方が楽で心和みます。
それに何より自分は自由人ですので、
制限を設けられるということにすごく抵抗感があるのです。

これら三つのこと、他にも細かいことはありますが、
インドで味わう大きな大きな喜びとともに、
これらの苦痛というかジレンマを常に感じながら過ごすことになりました。


これまでのインドとの関わりは不思議なことの連続です。
まさに奇跡としか表現できまいような数々の導きがあり、
今のインドとの関わりはすべて必然であると確信することができ、
それはとても幸せなことだと感じています。

ですから今回感じたジレンマもすべて必然であるはずです。
インド滞在中の一ヶ月半の間、
その必然性をいかに受け止めるべきなのか思い悩み、
心の中で何十回、何百回繰り返し自問自答しました。

その時に頭に浮かべたのが、
『起こってくることはすべて正しい』
この言葉です。

どんなことでも身の周りで起こることはすべて必然である、
またその中でも苦しいことほど大きな実りを得ることができる、
それは頭の中では分かっていても、
実際目の前にそれがある時は、なかなか心の中で受け入れることができません。

受け入れがたいことを受け入れようとすること、
その中に自分の持つ表面的価値観を滅し、
身の周りのモノやコトを、本当の意味で素直に見つめ、
受け入れる力が養われるのではないかと感じます。

すべてが正しいから、すべての物事にイエスと答ええなければならない
ということではありません。
その正しいというのは、最も深い真我、魂レベルでの判断であり、
起こってくることはすべて魂レベルで自ら望んだことであるからこそ、
普段は表面意識の陰に隠れて見ることのできない
魂レベルでの意志を見るいい機会にすることができます。


人間誰しも喜怒哀楽の感情があり、
楽しい時は喜び、辛い時は悲しくなるものですが、
そういった感情とはまた別に、より深いところで、
これは自ら(の真我、魂)が何を望んで引き寄せたのか、
ここから何を感じ取りたいと願っているのか、
インドから帰って九ヶ月経ち、
こんなことをより強く思うようになりました。

起こってくることはすべて正しいとは、
どんなことにでも善悪の価値を付けるのではなく、
ただあるがまま受け入れ、
胸の最も深い部分が感じるまま正直に、素直に反応する、
こういうことなのだと思います。


自分はボランティア精神が旺盛で、
人に喜んでもらうことをするのが大好きです。
特に子どもやお年寄り、社会的弱者の方たちと喜びを分かち合いたいと
いつも願っているつもりなのですが、
実際はインドのホームで大勢の子どもたちと接すると、
愛情を求めてくる子どもたち全員に、
一律同じような接し方はしていません。
自分勝手な接し方で、
深く反省しなければならない点が多々あります。

特に今回女児との接触が制限されたことで、
自分の中にある “えこひいき” とも言える子どもたちに対する偏った思いが
心の中に大きくあることがよく分かりました。
自分の中にある愛情は肉体的エロスの愛であり、エゴだということです。

こういったこと、やはり少しずつ時が経てばハッキリと見えてきて、
それに対してきちんと向かい合うことができるようになるものです。

やはり時というもの、
時とは経験とも言えると思いますが、
これはとても大切です。
時の中で培った経験が、これまでの他の経験を熟成させます。

いろんな人たちとの触れ合い、
職場、家族との出来事、
そういったたくさんのことがあり、
そこで中で自らがしっかりとひとつの方向性を持って生きてき、
その上ですべてが熟成し合い、いい具合に発酵し、実りを得るのだと思います。

ひとつの経験がキュウリやナスのような漬け物の材料だとすると、
時を経ながら経験する他の物事はそれを熟成するぬか床となり、
それはまた互いに材料、ぬか床の役割を果たし合うということです。


時でいうならば、今を生きる、これはとても大切なことです。
これは言葉を変えるなら、
本来人間は今しか生きられないにも関わらず、
過去を憂い、未来に心煩わせ、無駄な意識のエネルギーを費やし、
最も大切な今への思いをおろそかにしてはいけないということです。

起こってくることはすべて正しい。
起こってくることとは今この瞬間に目の前にあること、
今ということと同義です。

今という時を受け入れ、
その受け入れた状態のまま、つぎの今に時を受け渡す、
そうすることでこれまでの今が光り輝くようになる。
抽象的な表現ですが、そんなことを今感じます。

冬場は白菜が安くて美味しいですね。
白菜は寒風や雪に耐え、
その中で育ったものが甘みを増して美味しくなります。

寒風に絶えている時も今、
収穫の時もまた今です。

『起こってくることはすべて正しい』
この言葉を、インドで繰り返し思っていた九ヶ月、十ヶ月前の今よりも、
こうしてこのページを書いている年末の今の方が、
より深みを持って感じられます。


今年心に深く残った言葉は他にもまだあります。
このつづきは、これから先の “新たな今” に書くことにします。

2015.12.25 Friday  
ひとつ前へ ホームへ メニューへ 次へ
Link Free
Copyright 2010 Sakai Nobuo All right reserved.