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2015年10月22日 ・・・ 共生社会実現のために

ほんの一週間ほど前のことですが、
ある経営者の団体が企画する講演会を聴くために、
市内中心部のきれいなホテルへと出かけていきました。

その団体は志の高い経営者の方たちが立ち上げたもので、
会社の利益を上げていかに儲けるかといった金銭的なことではなく、
これからの日本を支えていくためにはどのような理念を持ち、
社会に対してどう貢献をしていったらいいのかといった
きわめて高尚なことがテーマです。

講演の内容も素晴らしいもので、
大転換期を迎えたこれからの人類の行く末を、
日本人として高い徳と志を持って歩まねばならないということを、
具体的に分かりやすく説いてくださいました。


夕方から始まった講演会は二時間ほどで終わり、
その後少しの休憩をはさみ、
同じ会場での懇親会となりました。

参加者は全部で約四十名ほどで、
広い会場にある五つの丸テーブルに分かれて座りました。

ホテルでの懇親会というのは、
各丸テーブルの中心に大きな回転する丸い台が置かれ、
そこに各種料理の入った大皿が並ぶといった形式が一般的です。
けれどその日は会場の壁際にある長テーブルに料理の盛られた皿が並び、
それを各自が取りに行くというスタイルでした。

自分で取りに行くスタイルは、食べる順番を自分で決められるので助かります。
ローフードのセオリーに従い、果物、生野菜といった順序でお皿に盛り、
野菜サラダを肴に冷たいビールをのんびりといただきました。

『とにかく出されたものはすべていただき、食べ物は残さない』、
これをモットーとしていますので、
各テーブルごとに料理が出ると、
お皿に残った料理につい目が行ってしまい、それを食べきることに責任を感じ、
いつも食べ過ぎになってしまうのです。
ですからこういった料理を立って取りに行くスタイルは有り難いです。


懇親会が始まってしばらくすると司会の方がマイクを握り、
各自の挨拶や自己紹介が始まりました。
まだ食事をはじめてそんなに時間が経っていない頃でしたが、
全員に一言話をしていただくにはかなり時間がかかるので、
いたしかたありません。

集まっている人数はそんなに多くはなく、
またみなさん服装もきちんとした紳士淑女の方たちなので、
それぞれの方の話にはキチンと耳を傾けておられます。

その間料理を口にすることはできますが、
その場の雰囲気は、
とても立ち上がって料理を取りに行けるようなものではありませんでした。

各テーブルに大皿があるのなら取ることができるのですが、
まだ食べ足りないという気持ちはあっても、
その場では我慢するしかありません。

全員の一言、そして役員の方たちの挨拶で約一時間ほどかかったでしょうか、
それらすべてが終わり、その日は散会となりました。

けれど懇親会が終わってもお腹はまだ満たされておらず、
会場には大量の料理が残されたままになっています。

お腹が満たされていないのは自分だけではないようで、
その後会の中心メンバーの方たちと二次会に参加したのですが、
会場となった居酒屋では、
みなさんそれぞれお酒を飲み、料理も何皿ずつか召し上がっておられました。


豪華な懇親会で料理が余ることは珍しくないのですが、
その日はこのことにとても違和感を覚えました。

志の高い経営者の方たちが集まっておられるその会は、
理念のひとつとして『共生社会の実現』といったことを掲げておられます。

共生社会とは一体何なのでしょう、
またそれを実現するためには何をしなければならないのでしょうか。

感じたことを率直に言わせていただくならば
空調の効いたホテルの立派な部屋で高尚な話を聴くことを学びとし、
目の前に出されたご馳走が大量に廃棄されることに何の抵抗も感じない人たちに、
共生社会を実現させる力があるとは思えません。

物事の感じ方、考え方は人様々ですが、
共生社会とは机上の空論、理論理屈の上にあるのではなく、
泥臭い土の上、ごく身近な生活の一コマ一コマの積み重ねの上に
成り立つものだと考えます。

たぶん裕福で社会的地位の高い経営者の方たちの集まりの中では、
こんな感じ方はごく少数派なのだと思います。
また何が正しい感じ方かは難しい問題ですが、
このたびのこういった経営者の方たちの姿が、
現代日本の主流なのは間違いないでしょう。


今の自分の持つ感じ方がより一層強くなったのは、
昨年インドの貧しい村の学校に三ヶ月半滞在してからです。

インドの貧しい村では各家に水道はなく、
毎朝、夕方、井戸まで水をくみに行くのは子どもたちに課せられた大切な仕事です。



ほとんどの家には冷蔵庫がありません。
日々食べるものは地産地消、近隣の畑で採れた旬の食材を、
毎日同じような調理法でいただくのですが、
食材に命が宿っているからでしょう、不思議と食べ飽きることがありません。



子どもたちは小学校に上がるか上がらないうちから家の手伝いをし、
お皿を洗ったり、弟や妹たちを抱っこして面倒をみています。



子どもたちは家族数名、狭い家、あるいはたった一部屋の中で暮らし、
そのすぐそばでは牛や山羊といった家畜たちが鳴き声を上げています。



そんな自然と密着し、泥臭い暮らしを日々眺めている生活は、
物質的には豊かではなくても、とても心満たされる日々でした。




その三ヶ月半のインドの暮らしから離れ、日本に戻り、
以前から通っていた異業種交流会に久し振りに足を運んだ時、
その場の空気に、それまで感じたことのない大きな違和感を覚えました。

大きな鉄筋コンクリートで造られた建物に入り、
会場となる部屋は空調、照明が完備され、
きれいに内装が施された部屋の中には白いクロスのかかったテーブルが
理路整然と並べられています。

そんな中、素晴らしい体験をされた立派な先生が、
決められた時間内に、自ら体験されたそのエキスとなるものを、
分かりやすく参加者全員に話して聞かせてくださいます。

それを聴いている人はその話を素直に受け止め、共鳴し、
「今日はとてもいいお話が聴けてよかった」と感動をするのです。


こんな日本の会合、講演会スタイルが悪いとは言いませんが、
その時素直に感じたのは、
こういった情報、知識収集の手段は “現実” とは対極にある“擬似的” なもので、
本来は例外的で特異なもののはずであり、
これが日常生活の当たり前の形になってしまうと、
人間が本来持つべき感覚が麻痺してしまうのではないかということです。

感覚的なものを言葉にするのは難しいのですが、
これは無菌状態の病室で横になり、
様々な食品から特定の栄養素を抽出し、精製した点滴を
打ってもらうことと似ているような気がします。

何か重い病にかかった時にはこういったことも必要でしょうが、
これが日常的になってしまうと、
人間の持つ野生の生命力、自然治癒力が失われてしまいます。

自然界にある食物となるものは様々な栄養素を含み、
その中には体に害を及ぼす可能性のある菌やウイルスが
入っているかもしれません。

それらを自ら選択し、体内に取り入れ、
唾液とともによく噛み砕き、
内臓で消化、分解、吸収、あるいは解毒する、・・・
こういった一連の過程を自らの力で進めていくことにより、
本来の命の営みができ、その営みをするべき力が備わるのです。


文明とは、快適性、利便性、高機能、多機能性、効率化、・・・
こういったものの追求に他なりません。
これはひとつの大きな益ではありますが、
この文明の働きは、
生命の持つ大きな特性であるダイナミズムと逆行する一面があります。

人類の創り出した文明は、文明法則史学で説かれているように、
様々な文明が栄枯盛衰を繰り返し、
生命のリズム、二重らせんの文様を描き続けてきました。
これは人間の魂が輪廻転生するのと同じことです。

高度な文明によって得られる快適性、利便性といったものと、
その対極ともいえるダイナミズムは陰と陽の関係で、
どちらも必要で価値、役割のあるものです。

ただ生命体としての文明は、
それが生まれた初期の段階では、
まったく新たなものを切り拓いていくダイナミズムが強く求められ、
それが成長、確固たる基盤を築いた後は、
それを発展させていくために、より効率的で利便性の高いものへと
重要度が移行していきます。
これは人間の成長過程でも同じです。


今は誰の目から見ても人類、社会全体が
その進むべき道を見直さなければならない時です。
いわゆる人類文明の大転換期です。

文明の転換期とは、
旧来の古い文明が終焉を迎え、新たな文明が産声を上げる時ということです。

今現在終焉を迎えつつあるのは科学を中心とした西洋文明です。
科学の科とは、物事を区分するという意味です。
それに対してこれから生まれようとしているのは東洋的生命観で、
これは区分とは逆に、物事のつながりに着目し、
自然のすべてを命あるものとして捉えていくものです。

ですからそのつながりの中に存在する “共生” とは、
東洋の考え方の中心に位置するものです。


大地をコンクリートとアスファルトで塗り固め、
そこに巨大な建築物を造り、内部を外から遮断し、
人間とって最も都合のいい空気、温度、明りのある人工環境を作り出し、
その自然からかけ離れた特異な環境に適した背広、ネクタイといった服装を
着用することを規範とし、
その土地の自然環境、旬とはまったく関係のない
外来の食材を用いたご馳走を口にし、
人間の命の糧であるそのご馳走という食べ物を無駄に廃棄することを
一向に意に介さない、
こういったスタイルは、共生とは完璧に真逆のものであると言わざる得ません。

西洋文明がまだ大いなる発展の途上であり、
その文明をこれからも謳歌しよう、
西洋文明の華である経済発展をこれからもどんどんと進めていこう
という意向であるのなら、
こういったスタイルはまさにピッタリです。

けれどこれから創り出していかなければならない東洋文明の根幹である
共生社会を志すのであれば、
たとえそれがどんなに困難なことであろうとも、
やはり今まで持ち続けてきた自らの生き方、ライフスタイルを
根本から変えていくことを避けて通ることはできません。


共生社会とは大地に根ざしたもの、泥臭いもの、
身近な生活のひとつひとつから、生き方すべてを包み込み実践するものです。
決して空調の効いたホテルの部屋で立派な講師の話を聴き、
疑似体験を味わい、ご馳走を食べ、乾杯しながら語り合い、
それで完結するというものではないのです。

では、理想的な共生社会を実現していくためにはどのようにすればいいのでしょうか。

共生社会とはすべてを受け入れ、活かし合っていく社会であるがゆえ、
すべてのものとの関わりを考えなければなりません。
ですから、「これとこれがポイントです」と、簡単に述べることは不可能です。

すべてを活かし合うがゆえ、すべてから感じ、学ぶ、
すべてがポイント ・・・ とまで言えるかもしれません。

ここでは反面教師的にある経営者の団体のことを書きましたが、
それとて社会の中で何らかの必然性を持って生まれ、
他と活かし合う関係としての役割を持つものです。
究極的にはすべてに無駄はない、これが共生社会の深遠なる原則です。


これから大いなる新しい時代の幕開けを迎えようとしています。
その中を心地よく生きていくために、
自然に根ざし、泥臭いダイナミズムを持ちながら、
広い心ですべてを受け入れ、共生社会の喜びを享受していきましょう。

  ~ みんなちがってみんないい ~



2015.10.22 Thurseday  
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