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2013年9月3日 ・・・ 多様性

先日1、2年ほど前から使っているオフィスチェアが壊れました。
買った当初からリクライニングの具合があまりよくなかったのですが、
それがつい先日バキッという音とともに、
背もたれが大きく後ろに傾いたままになってしまいました。

翌日それを買ったホームセンターに電話で問い合わせしたところ、
そこのオリジナル製品であるにも関わらず、
修理も交換もできないと言われてしまいました。

何事も新品に買い換え、あるいは本体や部品ユニットごと交換する
というのが当たり前になってしまった日本ですので、
それも致し方ないかとは思うのですが、
インドのように街角にいろんな修理屋さんがいて、
まずは分解して調べてみて、
純正部品がなくてもあり合わせのパーツを使って修理をする、
こういった文化がないのは、
いくら効率化を求めた結果であったとしても寂しいものです。

けれど日本とインド、このどちらがいいと判断することはできません。
どちらも文化、文明の発達度合い、生活環境が異なり、
それぞれの社会に適応した様式というのがあるはずであり、
それにひとつの尺度でもって優劣や善悪をつけることはできません。


その翌日、近所のスーパーの食料品売り場を歩いている時、
うっかりしてお菓子を並べている陳列棚を倒してしまいました。
お菓子は個別包装されていて汚れたり壊れたりすることはなかったのですが、
たくさんのお菓子が床に散乱してしまいました。

一人慌ててしゃがみ込みながらお菓子を片付けていると、
近くにいた主婦の方と女子高生ぐらいの女の子が
すぐに一緒に片付けを手伝ってくれました。

こういった時、すぐに見ず知らずの人に手を貸せるのは、
日本人の持つ素晴らしい美徳ですね。
東日本大震災の時にもこの美徳が大いに発揮されました。

この美徳は日本独自のものだとは言いませんが、
日本の誇るべきものだと思います。
この美徳は日本を取り囲む豊かな自然環境や歴史によって培われたものであり、
どこの国でもその国の文化や風習には、
その国の歴史や地理的条件など様々な要素が深く関わっています。
ですからそれらの表面的特質だけを一列に並べ、
どうあるべきかを論じることはできません。

素晴らしい文化を持った日本の国、
それを礎となった日本の過去に感謝するべきでしょう。


これは昨日9月2日、地元の中国新聞に掲載された記事です。
宮島と平和公園、広島にある二ヶ所の世界遺産のトイレ掃除をしたことを
子ども記者の目線で紹介してくれました。


                         <画像をクリックすると拡大します>

トイレ掃除は心磨き、
これが事実なのは、多くの実践している方が感じられていることです。

普段トイレ掃除をするモットーは、汚れを落とすことではなく、
徹底的、ピカピカになるまで磨き上げることです。
これはきれいなものと汚いもの、浄と不浄をきちんと分別するということでもあります。

けれど本来の自然のあり様は混沌としたものであり、
磨き上げられた便器のようにピカピカに輝いているものは自然界には存在しません。
光り輝くダイヤモンドでも、自然の中での姿は岩に埋もれたガタガタの原石です。

トイレ掃除という分別をつける作業で心が磨かれるのは、
人間が社会的動物であり、
その社会性に大きく影響を与えるからだと考えられます。

そして日本でマイナーながらもトイレ掃除活動が盛んに行われているのは、
日本は分別が行き届いた高度に文明、文化が発達した国であり、
日本人の持つ浄・不浄の概念と一致するところがあるからだと思われます。

どこの国の民族にとってもトイレをきれいに保つことは悪くはありませんが、
日本人が求めるほど強く求める必要はないのではないかと感じます。


インドで寝台列車に乗った時、
車両にあるトイレのステンレスの床は、
水かおしっこか分からない液体で濡れていて、
インド人たちはその中に平気で裸足で入っていくのに驚かされました。

インド人は何でも不潔・不浄なものがOKというわけではありません。
これは日本人とは浄・不浄の考え方が異なるからであり、
彼らには彼らなりの分別、そして自然観があるのです。

インドのホームでは子どもたちが生活するコテージの横に大きな水槽があり、
そこの水を使って歯を磨き、手や顔を洗い、水浴びをし、
食器を洗い、洗濯をし、すべての水の用事をそこで済ませます。

水槽の底には歯ブラシやご飯粒が落ちていますが、
そんなことを気に掛ける様子はまったくありません。
そんなことを気にしていては日々の生活はできません。
それで病気にならなければ、それは不浄なことではないのです。

そんなインドで、トイレの便器を磨き上げることを求めても、
そこにどんな意味があるでしょうか。
トイレ掃除は社会性に根ざした活動です。
その社会性のあり方は、社会が異なれば当然変わってくるのです。


何事もこれが最善であると決めつけるのは困難です。
どんなにいいと思われることでも、
その裏には何らかの危険性が潜んでいることがほとんどです。
世の中に絶対善、絶対悪は存在しないのです。

日本のスーパーやコンビニに並ぶ食料品は厳密に賞味期限で管理され、
それらは少しでも日持ちをするように
食品添加物が大量に添加されていて、
常温で長期間保存してもカビが生えず、
腐敗することもなく驚くほど長く元の状態を保っています。

これは人間の命を保つために必要な、
食品に含まれている菌という命を殺した結果であり、
こんなものを食べて人間が健康になれるはずがありません。

これは日本人が求める異常なまでの清潔感が導いた
悪しき結果のひとつです。

これが裏の顔であるとするならば、
それに対応する表の顔がピカピカに磨き上げられた便器であると
言えなくもないと感じます。

トイレ掃除といえども絶対善とはなり得ません。
なり得ませんが、その裏の悪の面を知り、それを自覚し、
それが表面化しないように心がけるならば、
絶対善とはならなくても、より価値の高い善とすることは可能です。
またそうする必要があるのだと考えます。


二十年近く前にベストセラーになった辺見庸の「もの食う人々」の中に、
バングラデシュの残飯市場の様子が出てきます。

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人の歯形の付いた肉、腐敗臭のする飯の入ったものが残飯市場で売られ、
それも “仕入れ” た日が古く鮮度の落ちるものほど値段が安くなるという
仕組みの元、人々の生活の中にしっかりと溶け込んでいます。

このようなことは当然日本では考えられませんが、
命の糧である食に対してこんな鷹揚な扱いができ、
食べられるものが浄であり、そうでないものが不浄、
こういった考え方を持てることに、
ほんの少しのうらやましさを感じます。

日本での食の浄・不浄の大きな基準のひとつが賞味期限です。
そして高度にシステム化された市場では、
例外がないこと、本来はあり得ない絶対ということが求められます。
ですから大量の食品添加物というのは、
その賞味期限というものに絶対の信頼を与えるために必要不可欠であり、
また購入した後もその浄である状態を長く保つために
欠かすことのできないものなのです。


善と悪は表と裏、
表があれば必ず裏がある、表大なれば裏大なり、
これは時空の実相です。

何十回も同じことを書いている気がしますが、
物事の価値や評価はそれをいかに捉えるかによって変わってきます。
特に日本の外にまで視点を広げて考えれば、
その価値観の幅はあまりにも広く、
表面的な差異よりも、自ずとその根底に潜む
それを産み出した元となるものに着目せざる得なくなります。

人類だけではなく、この時空にあるものはすべて渦を巻くように循環し、
行きつ戻りつを繰り返しながら少しずつ進化してきました。

その進化の過程に於いて、
多様性は命を存続発展させるために欠くべからざるものです。
特に今のように価値観が大きく変わろうとする時はなおさらです。

わたしと小鳥とすずと
     金子みすゞ

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。


2013.9.3 Tuesday  
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