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2013年8月26日 ・・・ 愛と商業主義

己の内に幸せを求めていくと、
いろんなものを比べることに空しさを感じます。

比べること、競争が悪いことではありません。
他と比べ、他と競い合うことによって人は切磋琢磨し、進化し、
才能を大きく花開かせてきました。

ただ現在のすべてが急激に発展、変化を遂げる世の中に於いては、
効率化、利便性というところに大きな価値を置かれ、
どうしても様々な分野で比較、競争させた上で
物事を判断するということが多くなってしまいます。

その結果、ほとんどすべてのものの価値は自分の外にあり、
それらは共通の絶対的尺度で測ることができ、
その尺度を比較し、少しでも価値が高いと思われるものを選び出し、
それらを生活に取り入れていくことが人間にとって絶対的な幸せの道だと
多くの人が信じこむようになってきました。

その結果得られたのは物質的に豊かな暮らしとともに、
生気のない体、笑顔のない表情、
そして壊滅的に破壊された自然環境です。


比較しない、競わないことが絶対的に正しいのではありません。
今までほとんどすべてのものを比較の上で判断していたのであれば、
それをいったん小休止させ、ただ心の内の充足感に身を委ね、
それで幸せを感じることも必要ではないかと考えるのです。

食べ物に感謝していただくようになると、
何がより美味しいのか、そんな比較をすることにあまり意味を感じなくなってきます。
食を通していただく命に対する感謝は本来比べるものではありません。

絶対に比べてはいけないとは言いません。
料理人が自慢の腕を競い、技術を磨き合うのはい大切なことです。
けれどもそれを比較し、点数化したガイドブックを珍重することによって、
己の内の喜びの声に耳を傾けられなくなってしまうのはとても悲しむべきことです。

よりいいもの、より美味しいものを求め、
そこに喜びを見出すことも必要ですが、
その高みを目指す気持ちと同時に、
ただ生きていること、
ただ命ある食物を口にできることに感謝をすることもまた同時に大切です。

今の文明はこの二つのバランスが崩れ、
高みを目指すというひとつの極に突っ走ってしまい、
それゆえに文明の発達が自然との共生、人の幸せに結びつかないのです。


一昨日、昨日と恒例の24時間テレビが放送されていました。
毎回『やる偽善かやらない善か』などと番組のあり方がネットで議論されていますが、
あの番組は今の社会の縮図であり、
様々な問題を提起してくれるという意味で有意義な存在であると感じます。

あの番組のテーマである『愛は地球を救う』、
これは真実だと思います。
けれど残念なことにあの番組の根底にあるのは愛ではありません。
あきらかに商業主義であり、
その商業主義と愛とはほとんど対極と言っていいほど相容れないものなので、
番組内で様々なおかしなことが起こり、
それが露呈されるのだと考えます。

愛は地球を救っても、商業主義には決して地球を救うことはできません。


あの番組では毎回タレントがランナーとなって番組の間中
長距離を走り(歩き?)、最後に “感動” のゴールを迎えることになっています。
過去には明らかにコースをショートカットしたタレントもいたようですが、
今はネットで監視情報が刻々と流れるようになり、
そういった不正はできなくなってしまいました。

けれどなぜタレントが走ることと愛とが結びつくのでしょう。
これについて明確な説明をすることは困難です。
なぜならば本来何のつながりもないのですから。

ではなぜタレントが走るのか。
それは運動とは無縁と思われるようなタレントに長距離を走らせ、
見ている者に大きな興奮を与えるためだと考えられます。

愛と商業主義は相容れないものですが、
その中でも数少ない共通項目が感動です。
愛によって感動が生まれます。
感動と興奮は人に活気を与え、
それを消費欲求へと結びつけることが可能です。

ですからあの番組ではたくさんのタレント出演やドラマによって、
愛と商業主義の接点である感動と興奮を作り出すことが求められるのです。

競い合うことは最も安易に興奮をもたらします。
けれどいくら商業主義とは言え、メインのテーマとして
たくさんのタレント同士を競わせて興奮を求めては、
愛とは完全に遊離してしまいます。

そこでどうしても興奮を呼ぶ舞台として、
個との戦いが必要となってきます。
それもできるだけ意外性、話題性のあるものが尊ばれます。


あの番組は、24時間感動と興奮を呼び続けることが求められます。
それはパチンコ屋の店内で大音量の音楽を流し続けることと同じです。
パチンコ屋の客は、台に向かっている間中常に大音響にさらされ、
興奮状態を維持しながら店の望むままに球を弾き続けます。

24時間テレビも見る人に常に感動と興奮を与えられ続けることによって、
チャリティー風バラエティー番組としてのあの番組を商業的に成り立たせ、
愛と商業主義との矛盾に目がいかないように仕向けられています。

もし深く静かに福祉のあり方を語ってしまっては、
商業的に成り立たないと同時に、
チャリティーを前面に押し出している番組の商業主義的構造を
露呈することに繋がってしまい、
それは決してあってはならないことです。


商業的に必要な感動と興奮を呼ぶためなら、
愛や命の尊さなど関係ありません。

そのひとつの例が、2006年、
ランナーであるアンガールズに声援を送った沿道の女性に対する
スタッフの恫喝でしょう。
これに番組制作の姿勢が濃縮して表れているように感じます。
まだその動画がネットにあったので貼っておきます。


24時間テレビ 沿道のおばあちゃんを恫喝! 投稿者 Jody_North


ネットを探すとこんなことも載っていました。

記憶に新しい辛坊さんと全盲の岩本光弘さんの太平洋横断失敗。
ロクな準備をしないまま航海に強行した理由は一つ。
24時間テレビの生放送中にゴールさせるためだったのだ。


真偽のほど定かではありませんが、
あの番組ならやりかねないと感じます。


感動を生むためだったら自然破壊もへっちゃらです。
詳しくはこちらをどうぞ。
  <【24時間テレビ】義足少女が縄文杉を目指すコーナーで立入禁止地区に
    スタッフ用キャンプ村が作られていた - NAVER まとめ>



商業主義は比較することで人の消費欲求を喚起します。
それに対して福祉の対象となる方たちからよく聴かせていただくのは、
当初は人との比較の世界で悩み、心を痛め、
それから少しずつ幸せの価値観を人と比べるのではない、
より内面的なものへと移行させていったということです。

以前「大きな波」に、NHK大河ドラマ「平清盛」の題字を書いた
ダウン症の書家金澤翔子さんのことを書きました。


翔子さんのお母様で書家の泰子さんの言葉を再び引用します。

技術的な問題ではありません。テクニックでいえば、私の方がずっと上手です。これは、魂レベルの話なのです。みな、心が震えると言ってくれます。翔子はうまく書こうという思いはありません。ただ、私に喜んでほしい、みんなに喜んでほしいという思いだけで書きます。名誉を気にすることはないのです。そのように無心で書くから感動を呼ぶのかもしれません。

素直な心、そしてその心のままに行動できるのは、
翔子さんが限りなく優しく美しい心を持っているからなのでしょう。

『お母様の心が切り替わったきっかけは何ですか?』

優しい子だと分かったからです。学校でシャンプーを付けられたことがあって、先生との連絡ノートで、そういうことがあったと分かるのに、「○○ちゃんにやられたの?」と聞いても、「平気、大丈夫」と言う。親が悲しんだり心配することは言わないんです。その良さが見えてきた頃から、違ってもいいんじゃないかなって。それまでは一生懸命、普通に近づけようとしていました。

翔子さんの心の優しさ美しさ、それとまったく同じものを、
その日神楽を演じてくれた子どもたちも持っています。
心が強くそう感じました。
  (注 : ダウン症の子どもたちが演じる神楽を見た日にこの文章を書きました)

翔子  ダウン症の女流書家が語った、心温まる50の言葉翔子 ダウン症の女流書家が語った、心温まる50の言葉
金澤 翔子

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この書家の金澤翔子さんとお母様の泰子さんの持たれている世界は、
比較によって人の心を駆り立て、
お金儲けを至上の目的とする商業主義の世界とは完全に対極のものです。

その商業主義の持つ特徴を最も端的に表したもののひとつが
AKB商法と世間から揶揄されるAKB48のプロモーション活動です。

AKB総選挙と称する有料の選挙運動をマスコミも巻き込みながら何度も行い、
そのたびに熱狂的ファンに莫大なお金を使って投票券の入ったCDを
何枚も買い求めさせ、
その選挙の途中結果を随時報道し、
順位に動揺するメンバーの様子を報じることで、
ファンの心にさらなる消費への欲求を呼び起こさせてきました。

また投票券の対象以外のCDにも様々な特典券が入り、
それを複数集めなければ満足な特典が得られない仕組みになっていて、
AKBファンは特典券目当てで複数のCDを買い、
聴くことのないCDをたくさん持っているのが当たり前だと言われいます。

ネットにはこんなに大量に同じCDを買い、



券だけを抜き取って無残に捨てられたCDの写真がたくさんアップされています。



この露骨な商業活動がいいか悪いかは別として、
これが愛や福祉といった概念と無縁のものだというのは明確です。


そのAKB48が24時間テレビでダウン症の子どもたちと同じステージに立ち
歌を歌っているということを聞き、
最初は悪い冗談かと耳を疑ってしまいました。

けれどあのグループは
金儲けのためなら手段をいとわない世界の存在ですので、
こういった感動を演出し、自分たちのイメージアップにも繋がることをするのは
ごく自然なことだとすぐに思い直しました。

商業主義に理念など必要ありません。
ただお金が儲かり、
その過程で自分たちの論理のからくりが露呈しなければいいのです。


ダウン症の子どもたちは一見してそうだと分かる身体的特徴を持っています。
その子どもたちとともに歌っているのは、
見た目の華やかさで互いに競い合い、
その競い合いを大きなビジネスとしている集団です。

そしてその集団の真ん中で歌っているのは、
容姿を整えるためにデビュー後に何度も整形を重ねた女性メンバーです。

それを見て、そこからこれっぽっちも感動というものを覚えません。
湧き上がってくるのは、ただその演出に対して醜いと思う感情だけです。

24時間テレビでは、 “感動を呼ぶ” 演出をするため、
障害を持つ人たちを画面の前面に映し出すことをコンセプトにしているそうですが、
それは視聴率を稼ぐために障害者をさらし者にしていることと変わりがありません。

そのステージの動画や写真はネットにたくさんありますが、
ここにそれらを載せることには抵抗があります。
見たい方はご自分で検索してください。


ダウン症の子どもたちが歌ったり踊ったりすることを自体を悪いと言っているのでは
当然ありません。

これは先の金澤翔子さんの文章を書いた日に見た神楽の一場面です。



広島市郊外の保養施設に障害を持った子どもたち、その保護者の方たち、
その他関係する人たちが集まって地元の神楽団が演じる神楽を見物し、
その演目の合間にダウン症の子どもたちが
大蛇(おろち)という最も有名な神楽を演じてくれました。

子どもたちの稚拙ながらも喜びにあふれた演技は大きな感動を呼びました。
彼らが楽しんで神楽を演じ、
その演技を通して見ている人たちみんなに喜んでもらいたいと考えている思いが、
見ている人たちにヒシヒシと伝わってきて、
熟達した神楽団の演技とはまた違った大きな素晴らしい感動を
見ている人たちみんなに送り届けてくれました。


感動の受け方は人それぞれです。
24時間テレビを楽しみ、それに感動を覚えることを批判するつもりはありません。
この番組で感動し、それで己を高めることができればそれは素晴らしいことです。

ここで語りたいのはその根底にある論理であり、
その論理で破綻を来しているものは、
いつかそれが崩壊する時を迎えます。
そしてその過程で人間の最も大切な判断力を鈍らせ、
それが延いては人心の荒廃、
人の幸せを阻害する要因に繋がると考えるのです。


こういったことはなかなか言葉で人に伝えられるものではありません。
自らが体験でもって感じるのが一番です。

また音楽などの芸術は、
時には言葉よりも人の生き方に大きな影響を与えることができます。

最近このナターシャ・グジーの歌う「いつも何度でも」をよく聴いています。



この中にある
繰り返すあやまちのそのたびにひとは
ただ空の青さを知る

この言葉が胸に響きます。

人はなぜ今日も美しく広がる空の青さを見ず、
もっともっともっと ・・・ まるで餓鬼のように更なるものを追い求めるのでしょうか。

皮肉なことにこの曲は今年の24時間テレビでも歌われていたそうです。
まずは24時間テレビの番組スタッフに、
この曲の聴き、心に響かせてもらいたいと願います。

2013.8.26 Monday  
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