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2012年10月3日 ・・・ 視点

先月22日、広島の観光地を車椅子で回るとどうなのか、
そのことを調べてインターネットで紹介する下準備として、
福祉車両を借り、障害のある方たちとともに観光地を視察してきました。
  <バリアフリーマップ>

車椅子の方のそばにいると、
いろんなことに気づかせてもらえます。

広島は国際文化都市を謳(うた)うだけあって、
市内主要箇所のバリアフリー化は進んでいるようで、
どこに行っても大きく困ることはありません。

けれど大きく困らないからいいというのは健常者の考え方であって、
障害を抱えている人たちは、普段から外に出る機会が限られている場合が多く、
また行くことのできる場所も自ずと制限されてしまいます。

そんな中、せっかく外に出て活動する際に、
そこに何か障壁(バリア)となるものが立ちはだかっていたならば、
障壁の上にまたさらに障壁が加わることとなるのですから、
がっかりする度合いは、健常者が想像する以上ではないでしょうか。
車椅子の方と一緒にいて、そんなことを感じました。

だからもっと急ピッチでバリアフリー化を進めるべきだとは思いません。
バリアフリーにするには多額の費用がかかります。
それでもって設備の機能が一部損なわれることもあるかもしれません。
またそのバリアフリー化によってどれぐらいの人が恩恵を受けるのでしょう。
そういった様々な要素を勘案する必要があり、
これは難しい問題です。

けれどバリアフリー化の中には、
ほんのちょっとした心遣いだけでほとんど費用のかからないものもあり、
そういったものはどんどんと推し進めるべきです。
そしてそのためには、
健常者が普段は気づくことがない、
自分とは違う、障害を持たれた方の視点といったものが必要です。


分かっているようで分からない、
私は特にパリアフリーについてきちんと勉強をしたことはないのですが、
それでもバリアフリーとはどういったものなのか、
だいたいのことは理解をしているつもりでした。
けれどそれはあくまでも “つもり” であるということが、
先日ようやっと気がつくことができました。

広島市内各所の公衆トイレには、
ほぼ必ず障害者用のトイレが付設されていますが、
そのトイレは所によって設備に差があり、
障害者の使い易さに大きく差があるということを初めて知りました。

車椅子介助支援をするほのぼの広島会では、
広島市内の公衆トイレマップを作っていますが、
それを作成、調査するためのチェックシートを持っています。
  <障害者用(多目的)トイレ調査表>

こんなにチェックする項目があるとは、まさに目から鱗です。
いかに普段の自分が見るべきところを見ていないかということに気づかされます。

また先日のページにも書いたように、
非常用の押しボタンの位置もとても重要です。
ただ便座に腰掛けている時に押しやすいだけでは、
万が一床に倒れて起き上がることができない時に対処のしようがありません。
適度な高さと位置、
また手で引っ張れるようなひもがぶら下がっていてもいいかもしれません。

いずれにせよ障害者の視点に立って考えれば、
お金をかけず、またほんの少額の費用で、
バリアフリー化できるものは数多くあるように感じます。


エレベーターから降りたすぐ横が下り階段だと、
車椅子ごと階段に転げ落ちる可能性があるということも初めて知りました。



車椅子の方はエレベーターから降りた後、
車椅子の向きを変えなければいけないのですね、
そんな簡単なことにも今まで意識を向けたことがありませんでした。

そして最近は乗降する階が違えば、
扉の開く位置が反対側になっているエレベーターをよく見かけますが、
それも障害を持たれた方に対する配慮だったのですね、
やはりそのことにも気がつきませんでした。


本当に気がついていないことばかり、
その気がついていないということに、ほんの少し気がつくことができました。

けれどこれはまだほんの序の口で、
まだまだ「知ったかぶりの頭」は治っていないということを、
昨日思い知らされました。


昨日、ほのぼの広島会の田中代表の事務所に行き、
先日観光地を回ったことについて話をしました。
その時に気がついた点、
健常者の視点から障害者のことを思っても、
それには限界があるということなどを話していたのですが、
それはただ口先だけのことで、
自分で言ったことを、自分ではまったく実行できていないということを知りました。

先日は私がすべての段取りをお世話をさせていただきました。
車を手配し、運転し、同行しながら写真を撮り、みんなの話を聞き、
それに基づいて「バリアフリーマップ」というページを書きました。

みんなとともに歩き、話をし、
それで自分はみんなの気持を十分に分かったつもりになっていました。

ところが昨日、田中さんにそのページの感想をお聞きしたところ、
「ページの最後に、参加した障害者の方のコメントがあればよかったね」
という思いがけない言葉をいただき、
頭を思いっきり叩かれたような衝撃を受けました。

気づかないことばかりと口では言いながら、
自分ですべて分かっている、自分だけで感想を綴ったページが書ける、
完全にそう信じ、参加した他の方から直接コメントをいただこうなどとは、
露ほども頭に思い浮かぶことはありませんでした。

なんという傲慢で己を知らない人間なんでしょうか、
ただただ恥じ入るばかりです。


他人の視点からものを見るのは難しいことです。
不可能と言ってもいいかもしれません。

だから自分と他人は違うんだ、
自分には知らない、分からないことがたくさんあるんだ、
そのことを自覚することが大切です。

そしてさらには、それを自覚したからといって、
それを実践できているわけではないということも知るべきです。


無知の知、この言葉が示す世界は限りなく奥深いものです。

他人の無知を指摘することは簡単であるが言うまでもなく人間は世界の全てを知る事は出来ない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。

なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。

<無知 - Wikipedia> より


2012.10.3 Wednesday  
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